戦国への扉

第三回 徳川家康

徳川家康
<データ>
とくがわ いえやす
1542〜1616(天文十一〜元和二)
・幼名 竹千代 ・通称 二郎三郎 ・前の名 松平元信、元康 ・官位 従一位、征夷大将軍、内大臣、三河守等 ・神号 東照大権現
松平広忠の嫡子
<生涯>
六歳の時駿府の今川義元のもとに送られる途中、捕らえられて織田信秀、ついで今川義元の人質となる。そして、義元の重臣関口義弘の女(築山殿)と結婚。桶 狭間の戦の直後、岡崎城に帰り自立。翌年、今川氏真から離反し織田信長と同盟。三河一向一揆 を鎮圧し三河一国を制服。直後、勅許を得て松平姓を徳川に改めた。武田信玄と大井川を画して駿・遠分割を約し、家康は遠江を占領。以後、駿・遠領国支配を めぐって三方が原の戦い等で信玄と戦ったが、信玄が没すると、信長とともに武田勝頼を長篠の 戦で破り、甲州に攻め入り勝頼を自害させて武田家を滅亡させ、信長から駿河国を与えられた。 同年、本能寺の変の混乱に乗じて甲斐と信濃半国を手に入れ、家康は三・遠・駿・甲・信の五カ国を領する大大名となった。織田信雄と同盟し豊臣秀吉と小牧・長久手に戦ったが講和し、以後、秀吉に臣従した。後北条氏の拠る小田原攻めには先鋒としての役割を果した。功により後北条氏の故 地二百四十万石余を与えられて江戸を本城とした。こうして家康は位も従二位内大臣と、豊臣政権下の大名の中では最高の地位に上昇する。秀吉の死後、五大老の筆頭として政務を総覧したが、関が原の戦で石田三成らの西軍を破って反対派 を一掃、征夷大将軍に任ぜられて幕府を江戸に開いた。家康は二年でその職を秀忠に譲り、征夷大将軍は徳川氏の世襲である事を天下に示した。これに不満を持 つ豊臣秀頼一派を大坂冬・夏の陣に滅ぼし、天下統一の成功した。引退後も家康は駿府にあって大御所として秀忠を後見し、将軍政治の基礎を作った。元和三年 四月十四日に没した。遺命により久能山に葬り、一年後に日光の東照宮に改葬
<論評>
第三回は徳川家康!!だが、彼についてはあまり言うことがない
はっきりいって嫌いだし、そんなに凄いとも思わない。ただ、武田信玄等の英傑がたくさんいた時代から少し遅れて生まれ、信長の後を金魚のフンのようにくっ ついてったら、長生きして戦国最後の巨頭となってしまった。んで運良く天下をゲットしただけのような気がする
彼がつまんないのは独創性がないところだ。+保守派とでもいうのだろうか、所詮は三河の田舎侍。三河のシステムをそっくりそのまま全国に適用しようとする もんだからあちこちに無理が出る
信長が改革の先鞭をつけ、秀吉も そのバトンを受け継いだ。それを家康が戻してしまったのだからあり得ない(石井ちゃん風に)。家康は商業というものが嫌いだった。確かに信長秀吉が行った商業政策は元か ら商業基盤があった尾張以西の西日本には通用するもんだったが、東日本には厳しかった。そこで家康はこのシステムは日本が混乱する元だと考え元に戻し江戸 に幕府を開いたのだが・・・日本一の商業都市になってしまったのは何の皮肉だろう?

ちょっと、三英傑が終わったところで三人の比較をしてみたい
世では「ホトトギス」を使っての例えが有名だが、僕は「捕らえた敵の勇将の処遇」をテーマに自分なりに考えてみた
信長:拒否されるのをわかって勧誘し、当然のように(侮辱もされ)断られ、打ち首
秀吉:とりあえず勧誘する。拒否されても得意の人たらしで口説き落とす
家康:切腹させる。んでもって「惜しい漢だったと」(わざとらしく大げさに)嘆く
こんなカンジ。微妙なニュアンスだから多分僕しかわかんないと思うけどこんなカンジ

次回はNDB君がリクエストしてくれた福島正則をやろうと思う。リクエストはいつでも受け付けてます
<予想能力>
政才90 戦才90 知才95 +我慢99
<おすすめ小説>
 なし。根本的に家康が活躍する小説は嫌い
痛めつけられる小説ならいつでもおすすめするよ?


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